あなたは子供を正しくしつけているだろうか。いや、あなた自身、正しくしつけられただろうか。何も難しいことを言っているのではない。犬猫でもきちんとやっている
死なないで生きて行く方法を子供に伝えたか、伝えられたかどうかである。
エサの取り方、排泄の始末、病気にならぬよう身体を清潔に保つ方法、そして如何に危険から自分を遠ざけておくか。
最近の世情を見ていると、どうも全部怪しくなってきているように思う。特に
危険回避についてはお話にならないレベルなのではないだろうか。
危険回避を動物的に見れば、最も安全なのは「安全な場所にこもって、どこにも行かない、何もしない」である。しかし、それは
飢え死にという危険に直結している事は言うまでもない。
だから最近流行の「ひきこもり」は、飢え死にの危険さえなければ最も動物的に正しい危険回避なのである。食べさせてくれる誰かが生きている内はそれで何とかなるし、もし運良く経済的なバックボーンがあれば一人になってからでもその安全策をとり続けることは可能である。
但し、それは個体としてみた場合の危険回避であって
種族にとっての危険回避でないことは当然だ。従って、その危険回避を端的に妨害してくれるのは本能ということになる。また、病気や事故で治療が必要になった場合、医者や薬局へ出かける精神的キャパシティがないと、究極の危険回避はそのまま死を受け入れる行為になるとも言える。
一方ひきこもりなどにならず、いわゆる健全な社会生活を送っていると自分で信じている人々の多くが
極めて病んだ状態であると言わざるを得ない。
最近物騒な事件を良く見聞きするが、その被害者たちの多くはその病んだ状態にあったとも言えるのである。
誤解がないようにあらかじめ言っておかなければなるまい。
犯罪が起こったとき、
一番責められるべきは犯人であり、次いでその犯人を産むことになった土壌である。例えばケンカをして一方が包丁で刺されたと言うように相対的な犯罪、言い換えれば犯人が被害者になりうる可能性があった状況での犯罪ではなく、一方的な犯罪、強盗や強姦・誘拐・放火などのように被害者に落ち度がない犯罪の場合、
被害者はなんら責めを負うことはないのである。
但し、
自分の身を守れなかった恨みは、自分と自分をしつけてくれた親以外に持って行く先はないと言うことを知らなければならないのだ。
嫌な例えであるが、子供がいたずら目的で誘拐され殺害されたとしよう。
問答無用で犯人が悪い。それ以外に社会的な責めを持って行く先はないのだ。しかし、いくら犯人を責めても子供の誘拐や殺害という事実は変えられない。そう言った悲劇的な事件は
起こる前に防ぐことが重要なのである。
なのに、最近の風潮は社会や法律、行政を変えることだけで対処しようとする無責任な感覚が横行していると言えよう。自分自身や親としての責任を考えようとする人は皆無に等しいと思う。
犯歴のある人の行動を把握しようとするミーガン法の模倣が行われるのも近そうだ。こども110番の家のように、子供を地域社会で守ろうとする行動も始まっている。
しかし、例えば日暮れから後は子供を家から出さないとか、例え親が一緒でも深夜に大型店舗や娯楽施設などに子供を連れて行かないなどの
配慮や教育を行おうとする人がどれだけいるのだろうか。
学習塾の帰り、夜の9時頃であれば変質者が人気のない道に出没するには充分な暗さがある。深夜まで開いている大型店舗のトイレで、子供をかっさらって車に乗せて連れ去ることは、この頃の他人に対する無関心さの中ではさして困難な犯罪でもあるまい。
変質者や犯罪予備軍を減らすことは社会的な努力で可能だが、ゼロにすることは絶対に不可能である。日本という社会は既にそうした反社会的人物を減らしてしまっているから、これ以上社会的努力や教育で減らすのは難しくなってきているのかも知れない。
だから、後は「
自分の身は自分で守る」しかないのである。
日本はちょっと前ほどではないにしても、個人がかなり安全に暮らせる国である。いきなり自動車が爆発したり、銃弾やロケット弾が飛んでくる可能性は極めて低い。
裏通りを歩いていてホールドアップにあったり、引きずり倒されてレイプされることも、あれば大きな事件として扱ってもらえるのだ。少なくとも日常茶飯事として片付けられることはない。
それどころか、空き巣に入られるだけで警察が出てきて、きっちり指紋や足跡を採って捜査してくれる。
だから、
「安全は当然」と言う馬鹿な感覚が蔓延ってしまったのだろう。
例えば、イラクで仕事を求めて警察官の採用事務所の前に並ぶことは、とりもなおさず爆弾テロの標的になることなのである。それでも仕事がなくて飢え死にするリスクとを天秤に掛けて命を賭けることになるのだ。
多くの平和な国では、それでも裏通りを油断して歩いていたら拳銃を突きつけられて財布を奪われる。もう少し物騒な国になれば、まず撃ち倒しておいてから財布を奪ったりもする。
これは物騒なようで犯人側のリスク管理なのだ。反撃されて傷を負うくらいなら最初から反撃能力を奪っておくのは当然と言うわけである。
それほど倫理観に欠けるわけでもない国でも、日本の女子高生のような格好で町を歩いていたら、まず
値段を聞かれる。無視すれば押し倒されて犯されてもそんなに驚くには当たらない。
爆弾テロも強盗もレイプも、決して良いことではない。しかし、それをする側にはそれなりの理由があるのだ。だからそうしたコトが起こる国では被害に遭わないようにすると言う極めて当たり前のことがきちんとできている。
日本は安全な国ではあるが、決して安全が当然な国ではないし、人間という生き物がそこにいる限りそんなものは未来永劫どこにも存在し得ないのだ。
だから、個人の安全は個人で守り、その上で社会自体を安全にして行く努力が求められるのである。
この順番は逆にはなり得ないことを忘れてはならない。
女性のおしゃれな服装は異性の目を惹くためにあると言っても過言ではない。しかし、動物的に見れば「異性の目を惹く」と言うのは「セックスしましょ」と同義なのだ。
レイプは犯罪である。犯罪者は法律に基づいて罰を受けなければいけないが、ケガや妊娠やエイズを含む性病のリスクは
被害者以外に引き受けてくれる人はいない。
異性の目を惹く服装が、それをおしゃれと受け止めてもらえるか、オトコを挑発していると取られるかの判断は、そのまま自分のリスク管理になると知らなくてはいけないであろう。
高い学歴を得ることは、収入の面で将来のリスクを軽減することになるだろう。そのために子供を塾通いさせるのも親としての子供に対するリスク管理になる。
しかし、その一方で
夜遅くの子供の外出を許すことによって、事件や事故に巻き込まれ、将来の心配をする必要がなくなるというリスクは付いてまわる。
そのバランスを考えてやるのも親の仕事であり、夜に出かける危険性を子供にしつけるのも親の仕事なのだ。
親だって人間だ。たまには息抜きしたいから週末の深夜に出かけたいこともあるだろう。
その時、子供を家において行くと火災などが起こったときに危険だから一緒に連れて行くというのもリスク管理だ。同時に、深夜の外出先というのは子供にとって危険な要素が多いから、親は出かけても子供は家において行くというのもリスク管理と言える。
どちらを選ぶか、あるいはどちらも選ばす、子供が大きくなるまで
親が我慢するというのも選択肢であろう。
今回は長くなるので次回に譲るが、同様のことは事件だけではなく事故でも言えることが多いのだ。
ちょっと回りくどい言い方になったが、一昔前ならもっと端的に被害者が責められたものだ。犯人を捕まえ、裁くのはお上の仕事であった。
一方で被害者を責めて、
同様の事件が起こらないように社会に知らしめたのは地域社会であり、卑近な生活エリアの口コミであったのだ。
子供が誘拐されれば、親のしつけができていないから子供がさらわれたのだ、きちんと子供をしつけられない親に子供を持つ資格はないと親を責める。
レイプが発生すれば、派手な格好で男の目を引くから襲われたのだ。そんなふしだらな娘は、襲われなくても嫁のもらい手などありはしないなどと被害者の生活態度を責めたものだ。
今から見れば
とんでもない人権無視の発言であるように見えるが、そうして被害者を責めることによって次の被害者を出さないよう、
自分自身を守れと教えていたのである。享楽的、刹那的な欲望のため、些細なことも我慢できない「普通の」人々が、自分自身を犯罪被害者になるよう追い込んでいるのが現代社会だと断言しても良い。
社会がより安全になった現在、もし昔のように自分自身を守る感覚がきちんと身についていれば、マスコミをにぎわせている嫌な事件は、うんと少なくなっているのではないだろうか。